【訃報】中国の保守派重鎮・李鵬元首相が90歳で死去、天安門事件を主導した「鉄の宰相」の足跡とSNSの反応

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中国の政界を長年にわたって牽引し、保守派の重鎮として知られた李鵬(り・ほう)元首相が、2019年07月22日に病気のため息を引き取りました。90歳という激動の人生に幕を閉じたことが、翌日の2019年07月23日に中国国営の新華社通信によって報じられています。1988年から10年もの間、首相という重責を担った同氏は、中国の近代史において決して忘れることのできない巨大な足跡を残しました。

李氏の生涯を語る上で欠かせないのが、1989年に発生した天安門事件での役割でしょう。この事件は、民主化を求める学生や市民が北京の天安門広場に集結し、政治改革を訴えた歴史的な運動です。李氏は当時の指導部において武力による解決を強く主張し、徹底的な弾圧を主導した人物として記憶されています。民主化のうねりを力で抑え込んだその決断は、現在も国内外で非常に大きな議論を呼ぶ象徴的な出来事となりました。

エリート街道を突き進んだ「太子党」の背景と専門性

上海に生を受けた李氏は、いわゆる「太子党」の代表格でもあります。太子党とは、かつて革命を支えた特権階級の子弟グループを指す言葉であり、彼らは幼少期から英才教育を受けて政界へ進出する傾向にあります。李氏の父は国民党に殺害された革命烈士であり、その後、伝説的な指導者である周恩来元首相の養子として育てられたという、極めて特別な出自を持っていました。こうした背景が、彼の政治的基盤を強固なものにしたのです。

若き日の李氏はモスクワへ留学し、発電技術を専門的に学んだ技術官僚(テクノクラート)の一面も持ち合わせていました。帰国後は電力関連の分野で着実にキャリアを積み上げ、1983年には早くも副首相へと抜てきされています。専門知識と強力な後ろ盾を武器に、政治の階段を駆け上がるスピードは驚異的でした。その後、1987年の胡耀邦氏失脚に伴う体制変更を経て、1988年04月には正式に国務院総理(首相)の座に就任しました。

SNS上では、彼の訃報に接して複雑な感情を露わにする声が溢れています。「一つの時代が終わった」という静かな受け止めがある一方で、天安門事件を知る世代からは「彼の強硬姿勢が後の中国を決定づけた」といった厳しい指摘も見受けられます。一方で、三峡ダム建設などの巨大プロジェクトを推進した実行力を評価する意見もあり、その評価は立場によって真っ二つに分かれています。これほどまでに世論を二分する政治家は、そう多くはないでしょう。

編集者の視点から言えば、李鵬氏の死は単なる一政治家の退場ではなく、中国共産党における「強い指導力」と「秩序の維持」を象徴する時代が象徴的に区切りを迎えたことを意味しています。彼が守ろうとした体制が、今後の国際社会の中でどのように変化し、あるいは頑なに維持されていくのか。その政治的遺産の功罪については、これからも厳しい視線で注視していく必要があると私は考えます。歴史の審判は、まだ下されたばかりなのかもしれません。

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