2019年6月15日、香港政府は**「逃亡犯条例」改正案の審議を延期するという異例の決定を下しました。この動きは、中国の司法制度に対する市民の深い不信感と、欧米諸国からの予想をはるかに超える強い反発が引き起こしたものです。特に、6月9日に100万人規模のデモが発生し、その後の12日にはデモ隊と警察当局との間で激しい衝突が起こったことが、事態を大きく動かしました。この混乱を受け、米中貿易戦争で厳しい立場に置かれている中国政府が、月末に控えたG20大阪サミット**(主要20カ国・地域首脳会議)を前に、国際社会のさらなる批判を避けるための緊急事態収拾に乗り出したと見て間違いないでしょう。
行政長官の林鄭月娥(キャリー・ラム)氏は、6月15日の記者会見で「説明やコミュニケーションが十分でなかった」と述べましたが、この発言の裏には、官僚出身で完璧主義者として知られる同氏の大きな誤算があったと推察されます。彼女の判断ミスの一つは、改正案に対する反発が、民主派だけでなく幅広い層にまで広がったことでした。香港が長年維持してきた英国流の司法システムと、共産党の指導下にある中国の司法とは根本的に異質なものです。香港市民の間では、容疑者の中国本土への引き渡しを可能にするこの改正案が、香港の**「司法の独立」を損ない、高度な自治を認めた「一国二制度」という根幹が崩壊しかねないという強い危機感が急速に高まったのです。
林鄭長官は、6月9日の大規模デモの後も予定通り改正を進めるとして、当初の予定よりも前倒しとなる20日に香港立法会(議会)で採決を行うと決定し、これによって反対派の怒りをさらに煽ってしまいました。デモ隊を強制排除するために香港警察が150発もの催涙弾を使用したことは、長期化した2014年の「雨傘運動」の教訓を生かした対応ではありましたが、若者たちが警官隊と衝突する様子は、「市民の声に聞く耳を持たない強引な政府**」という印象を国内外に強く植え付けてしまったのです。この一連の強硬姿勢は、SNS上でも「#NoExtraditionToChina(中国への引き渡し反対)」といったハッシュタグとともに拡散され、政府への不信感や警察の対応に対する批判的な声が、瞬く間に世界中に広がる結果となりました。
中国政府は一貫して今回のデモの背後に外国勢力がいると断じ、条例改正自体を支持する姿勢を見せていました。しかし、外交筋からは「条例改正は雨傘運動で焦点となった行政長官の選出方法ほど、中国にとって重要ではなかった」という見方も浮上しています。実際に、中国の劉暁明・駐英大使は「条例改正は中国の指示ではない」と明言しており、香港内部でも「林鄭長官の情勢判断ミスが招いた事態」とする見方が囁かれていました。一方で、米国議会では、一国二制度を前提に香港に与えられてきた経済的な特別扱いを見直すべきだという議論が持ち上がり始めています。1300社もの米企業が香港に拠点を置くなど、米国と香港の経済的な結びつきは非常に強固であり、中国政府内部では、米国が香港問題を外交上の駆け引きのカードとして利用しようとしているのではないかという強い警戒感が広がったのです。
さらに、台湾情勢も中国の判断に影響を与えました。6月13日には、次期総統選の公認候補に、台湾の独自性を守る路線を掲げる現職の蔡英文総統が与党・民主進歩党(民進党)から選ばれました。中国は**「一国二制度」を台湾統一の推進モデルとして掲げていますが、香港での大規模デモは、台湾でも反中ムードを高める兆しを見せ始めていたのです。こうした国内外の状況を総合的に判断し、中国も事態の収拾を急ぐ必要に迫られました。民主派が求める条例改正の「撤回」には応じず、あくまで「延期」という形で決着させ、習近平国家主席の「メンツ」を保ちつつ、G20サミットを無事に乗り切ることを優先したのでしょう。
中国最高指導部で香港を担当する韓正(ハン・ジョン)副首相が、林鄭長官を深センに呼び出して善後策を協議したと報じられています。そして、中国政府と強い繋がりを持つ香港政府の諮問機関トップ、陳智思(バーナード・チャン)氏が6月14日に「このような状況で審議を続けるのは難しい」と発言したことで、林鄭長官は進退窮まる状況となりました。中国国営の新華社通信は6月15日、香港マカオ事務弁公室の報道官の談話を発表し、「各界の意見を広く聞き、社会の平静さを速やかに回復するためのものだ」として審議延期を評価する姿勢を示しました。
今回のデモには、2014年の雨傘運動では見られなかった中高生を含む多くの若者が参加したことも注目に値します。雨傘運動が目に見える成果なく終わり、その後民主派への政治的な締め付けが強まっていた中で、今回のデモは政府の方針を変更させるという「成功体験」を香港市民、特に若者に与えることになりました。しかし、民主派団体は条例案の「完全撤回」を求めており、反対運動が早期に収束するかは極めて不透明な状況でしょう。この成功体験は、今後、他の中国寄りの政策に対しても市民の反発が強まるきっかけになる可能性を秘めていると私は考えます。香港の「一国二制度」**の未来は、市民の粘り強い抗議活動と、それに対する中国政府の今後の対応にかかっていると言えるでしょう。