美学者である伊藤亜紗氏は、最近読んだ書籍から得た洞察を披露してくれました。それは、ロボットと生物の生産方式が根本的に異なるという点です。ロボットが工場で生産される「工場生産方式」であるのに対し、生物は「使う場所で作る」、つまり**「現地生産方式」でその体を形成していくというのです。この「現地生産方式」とは、私たちが生きるその環境の中で、食べたり、呼吸したり、体を洗ったりする行為を通じて、その場の環境を少しずつ自身の体に取り込む過程を指します。例えば、食生活が変われば体臭が変化し、水質が変われば髪質が変わるように、生き物の体は環境に合わせて刻々と変化しているのです。
この現地での「生産」は、物質的な身体だけでなく、その人の振る舞いや人格にまで及ぶというのが伊藤氏の考えです。そして、伊藤氏の生活においては、言葉、特に「吃音(きつおん)」という要素が、この現地調達のプロセスに大きな影響を与えています。吃音とは、言葉が滑らかに出ない発話障害の一種で、特定の音や言葉を繰り返したり(連発)、引き延ばしたり(伸発)、言葉が出なくなったりする(難発・ブロック)症状が現れることがあります。
伊藤氏は、日本で生活している間は、どもりが出ないようにさまざまな工夫を凝らす「隠れ吃音」タイプで、表面上は吃音の症状が見えにくい状態でした。ところが、アメリカのボストンに渡り、生活の中心が英語に変わると、これまで培ってきた隠すための工夫が通用しなくなってしまったそうです。その結果、アイスを注文する際に「sssssssstrawberry」となったり、自己紹介で「vvvvvvvisiting scholar」とどもってしまうなど、症状が以前よりも目に見えて重くなりました。この体験は、伊藤氏自身の言語的アイデンティティがいとも簡単に崩壊していく感覚をもたらしたといいます。
こうした状況は、伊藤氏が以前研究のためにインタビューした吃音当事者のエピソードを思い出させました。その女性は20代までは吃音を工夫して隠し、流暢に話していましたが、30代からは積極的にどもりを解放する選択をしたそうです。表面上はひどくどもっていても、そのほうが彼女にとって自然で楽だと感じられたためです。伊藤氏はいま、この女性が意識的に手に入れた「吃音を隠さない生き方」**を、ボストンという環境によって半強制的に手にすることになりました。
実際に吃音を隠さない生活を経験してみると、確かにその心地よさが少しずつ理解できるようになったそうです。話し相手が「大丈夫、伝わっているよ」といった声をかけてくれると、恥ずかしさよりも安堵感を覚えるといいます。伊藤氏が、これはかつてインタビューした女性が語っていた「自然さ」とは異なるかもしれないとしつつも、自身の吃音が社会化され、むしろ自分の手を離れていくような感覚があると言及しているのは非常に興味深い点です。吃音を隠すという行為は、「自分で何とかしよう」と環境との交流を断ってしまうことですが、隠せなくなったことで、吃音が突然、環境との交流状態に投げ込まれた、まるで生き物のように息を吹き返したかのようです。
さらにボストンでは、現地の吃音当事者たちとの交流も始まりました。彼らのどもり方を観察することで、「英語でどもるには母音をああいうふうに伸ばせばいいのだなあ」といった新鮮な発見があるそうです。吃音を意識的に完全にコントロールすることは困難だとしても、伊藤氏の体は、この環境の変化や現地の人々の発話の仕方を「現地調達」し、彼らのどもり方を取り入れて変化していくのかもしれません。私見ですが、自身の言語的アイデンティティが崩壊しつつあるという危機的な状況を、現地調達による「生成変化」というポジティブな視点で捉え直す伊藤氏の視点は、美学者ならではの洞察力であり、身体と環境の在り方について深く考えさせられます。
この伊藤氏の考察はSNS上でも大きな反響を呼んでいます。「吃音の現地調達という表現が文学的で秀逸だ」「身体は環境の産物であることを改めて認識した」「隠すのをやめるという受動的な状況から、むしろ環境と能動的に交流し始めるという逆転の発想がすごい」といった好意的な意見が多く見受けられ、「現地調達」という言葉が、環境と身体の密接な関係を端的に表現していると評価されているようです。2019年6月18日時点で、ボストン滞在が残り3ヶ月とのこと。この短期間で、伊藤氏の吃音が何を「現地調達」し、どのように「生成変化」を遂げるのか、煩わしい存在でありながらも、その変化を観察することを楽しみにしているという結びの言葉に、環境との新たな付き合い方を模索する伊藤氏の探求心が垣間見えます。