女優の浅田美代子さんが、都会で育った幼少時代から芸能界デビュー、そして波乱に富んだ結婚生活と、その後の母親との別れについて率直に語っていらっしゃいます。浅田さんは1956年に東京で生まれ、お父様が祖父の代から港区麻布で自動車修理工場を経営されていた、いわゆる「都会育ち」でいらっしゃいました。ご自宅の近くにあった有栖川宮記念公園でカブトムシやザリガニを追いかけ、男の子に交じって木登りまでするような、とてもおてんばでやんちゃな少女時代を過ごされたそうです。
浅田さんの幼少期は、ちょうど東京の街が劇的に変貌を遂げた時期と重なります。東京タワーが完成し、映画『三丁目の夕日』で描かれたような情景が広がる中、1964年の東京オリンピック開催に向けて首都高速道路が建設され、路面電車が姿を消しました。浅田さんにとって六本木は「本屋さんの町」というイメージだったそうですが、この頃から大人が夜を楽しむ「夜の町」へとその姿を大きく変えていったとお話しされています。
ご両親は浅田さんを名門のお嬢様学校に入れたいという願いが強く、自宅から歩いて行ける東京女学館の小学校受験をさせたといいます。しかし、浅田さんご自身は近所の友達と離れるのが嫌で、面接では名前を聞かれて「ない。ママ帰ろう」と答えてしまい、当然ながら不合格となってしまったそうです。この出来事には相当厳しく叱られたそうですが、ご両親の思いは変わらず、中学受験で再び挑戦し、念願叶って東京女学館に入学されています。
ところが、高校2年生の時に人生の大きな転機が訪れます。学校の規則で芸能活動が禁じられていたにも関わらず、16歳の時に明治神宮外苑でスカウトされます。当時は女性の連続殺人事件があったこともあり、最初は怖くて断っていたそうですが、熱心な説得を受け、TBSのヒットドラマ『時間ですよ』のオーディションに挑むことになります。応募総数が2万人以上という高倍率だったため、ご本人も「受かるはずがない」と思っていたそうですが、見事に合格。翌日には新聞で報じられ、浅田さんは高校を自主退学し、女優・歌手への道を歩み始めました。
浅田さんは1973年に「赤い風船」で歌手デビューを果たし、たちまち人気を博しましたが、芸能活動をわずか5年で休止し、シンガーソングライターの吉田拓郎さんとご結婚されます。この結婚には特にお母様が「まだ21歳」だと猛反対されたそうです。しかし、芸能界での親代わり的存在であった内田裕也さん・樹木希林さんご夫妻が間に入り、まず吉田さんの真意を確かめ、続いて希林さんがお母様を説得してくれたことで、最終的にはお母様も納得されたといいます。残念ながら結婚生活は6年程度で終わりを告げていますが、浅田さんはご自身の人生が「親を裏切ってばかり」だったと振り返っていらっしゃいます。
浅田さんがお母様から受けた教えの中で、最も心に残っているのが「偉そうにするな」という言葉です。生意気な態度を取ると「そんな偉そうなことを言うなら芸能界なんかやめなさい」と叱られたそうで、これが浅田さんの根幹をなす教えとなったといいます。離婚後、お母様は「子供の世話にはならない」と決め、50歳頃でゴルフ関連の会社の正社員として自立されたというエピソードは、その意志の強さを物語っています。
60歳を過ぎて浅田さんと同居を始めたお母様は、68歳で白血病を患い、2年間の闘病生活を送られます。お母様は闘病中も一切弱音を吐くことはなかったそうで、70歳で逝去されました。浅田さんは、お母様がご自身が看取る時間を作ってくれたのだろうと感じており、「しんの強い、本当に格好いい母でした」と、その生き方を称賛されています。お母様の自立した生き方と厳しくも愛情深い教えが、浅田さんの今の活躍の根源にあるのではないでしょうか。
この記事が公開されるとSNS上では、「浅田美代子さんの親子の話、泣ける」「偉そうにするな、の教えは胸に響く」「樹木希林さんがお母様を説得したエピソードがすごい」といった反響が寄せられています。特に、現在公開中の主演映画『エリカ38』で浅田さんが初めて詐欺師という難しい役どころに挑まれていることから、「この芯の強さがお母様譲りなのね」「女優としての活躍を続ける原点がわかった気がする」など、そのキャリアと重ね合わせた感想も多く見受けられます。浅田さんの飾らない正直な語り口と、強い意志を持つお母様の存在は、多くの読者の心に深く響いていることでしょう。