2019年5月31日現在、世界経済の重要な牽引役であったアジア経済が、米中貿易摩擦の激化という予期せぬ荒波に直面し、その変調に深刻な懸念が広がっています。特に、巨大市場である中国向けの輸出に依存度の高い新興国・地域の経済の先行きが危ぶまれている状況です。本来、アジア経済は2018年に金融市場の動揺などでやや勢いを失ったものの、その後、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)が利上げを休止したことで市場が落ち着き、中国経済も2019年後半には回復すると見られていました。しかし、この楽観的なシナリオは、米トランプ政権による断固たる措置によって一変してしまったのです。
その決定的な転換点となったのが、2019年5月にアメリカ政府が、これまで猶予措置をとっていた2,000億ドル相当の中国製品に対する制裁関税を正式に発動し、さらに3,000億ドル分の追加関税も視野に入れた発表を行ったことです。この動きは、中国の輸出に直接的な打撃を与え、中国政府は財政出動による内需の刺激策で景気の下支えを試みてはいますが、影響の広がりは避けられません。中国を中核として高度に複雑化したサプライチェーン(供給網)に組み込まれているアジアの企業群に対して、まるでドミノ倒しのように悪影響が連鎖していくことが懸念されています。サプライチェーンとは、原材料の調達から生産、加工、流通、販売に至るまでの一連の連鎖的な流れを指す経済用語で、現代の国際分業体制において極めて重要な概念と言えるでしょう。
実際、アジア各国ではすでに経済の変調が顕在化し始めています。2019年1月から3月期の経済成長率を見ると、輸出の不振が響き、シンガポールが過去10年で最も低い水準に、タイも4年ぶりの低成長を記録しました。さらに、半導体関連の輸出が急減した韓国では、一時的にマイナス成長に陥るという深刻な事態も発生しています。一部には、アメリカの高関税を避けるため、中国からアジア周辺国へ生産拠点が移転してくるのではないかという期待感もあります。しかし、技術的な制約から移管可能な品目は限定的であり、実際の生産移管には多くの時間と費用が伴います。このため、短期間で貿易摩擦による目先の悪影響をどこまで相殺できるかは極めて不透明だと言えるでしょう。
この景気の急激な変調は、各国の中央銀行に対しても、非常に難しい政策決定という課題を突きつけています。直近の動きとしては、マレーシア中央銀行が3年ぶりに、フィリピン中央銀行が6年半ぶりに政策金利を引き下げる「利下げ」に踏み切りました。利下げは、金利を下げることで企業の借り入れを促進し、投資や消費を活発化させるという景気刺激策の一つです。その一方で、経済の先行きに対する不安感から、アジア地域から資金が流出する兆しも見受けられ、年明け以降に回復傾向にあったアジア通貨の対ドル相場における価値上昇分が、ほぼ帳消しになるという事態が発生しています。
具体的には、台湾ドルや韓国ウォンが2年4カ月ぶり、マレーシアリンギが半年ぶりの安値圏で推移しており、アジアの金融市場は緊張感を増しています。一方で、インドネシア中央銀行は、国内の経済界から景気刺激策としての利下げを求める声がありながらも、自国通貨であるルピアの安値進行を防ぐ「為替の安定」を重視し、利下げを見送っています。このように、アジア各国の中央銀行は、景気を刺激する必要性と、為替相場の安定という二つの難しい目標を両立させる、困難な舵取りを迫られているのが現状です。
私見を述べさせていただきますと、アジア経済が世界経済の成長を支える「けん引役」としての役割を果たせなくなることは、世界の金融市場にとって極めて大きなリスクであると危惧しています。万が一、アジア経済が想定以上のスピードで減速するようなことになれば、市場の動揺は避けられず、これまで低金利環境下で蓄積されてきた潜在的なリスクが一気に表面化する恐れがあります。アジア地域特有のリスクとして、長期的な低金利を背景に膨張した企業債務の問題や、短期間で価格が急騰した一部の不動産市場のバブル的な側面が挙げられます。
こうした状況を踏まえると、アジア各国の当局者は、これらの潜在的な金融リスクから目を離さず、その顕在化を何としても回避するための政策運営が求められます。同時に、世界経済の安定という観点からも、米中の両大国に対して、貿易摩擦のこれ以上の激化を避け、穏やかな「軟着陸」へと向かうよう、強く促していく必要があると考えます。この貿易戦争がもたらす影響は、もはや米中二国間だけの問題ではなく、グローバルなサプライチェーンを通じて、アジア、そして世界全体に暗い影を落としていると言えるでしょう。