2019年6月1日で、日本版「司法取引」制度が導入されてから丸1年を迎えました。これは、複雑な経済事件などの解明に繋がる新たな捜査手法として、大きな期待とともにスタートした制度です。しかしながら、この1年間で起訴(検察官が裁判所に対し、特定の被告人に刑事罰を科すよう求める手続き)に至ったと公になっている事例は、わずか2件に留まっています。そのうちの1つが、あの日産自動車の元会長であるカルロス・ゴーン被告(当時65歳)の事件です。導入当初の期待とは裏腹に、制度の運用については、未だに社会からの批判や懸念の声が根強く、極めて慎重な運用が続いているのが現状でしょう。
日本の司法取引は、「捜査公判協力型」と呼ばれる特殊な形式を採用しています。これは、他人の犯罪に関する捜査や公判(裁判所での刑事裁判)に協力する見返りとして、自身の不起訴(検察官が事件を起訴しないこと)や、求刑(検察官が裁判所に求める刑罰の重さ)の軽減が約束されるというものです。特に、資金移動が複雑で、証拠の隠蔽工作が巧妙に行われるような経済事件において、非常に有効な捜査手法となることが期待されています。
検察幹部は、この制度のメリットを強く強調しています。彼らによると、通常は時間と労力がかかる事件でも、司法取引によって「確かな証拠が一括で得られ、事件の重要人物から確実に聴取できる」ようになると言います。迅速かつ効率的な事件解明に繋がる可能性を秘めているのは間違いありません。しかし、その一方で、無関係な人が事件に巻き込まれたり、制度が悪用されたりする恐れもあるため、その運用には極めて高い慎重さが求められているのです。
水面下では、制度導入後、「かなりの数の司法取引の申し入れがあった」(検察幹部談)という情報もあります。しかし、その多くは違法薬物や暴力団が絡む事案で、提供された情報の信用性などが問題となり、関係者との合意には至らなかったとされています。実際に起訴まで進んだのは、東京地検特捜部が手掛けた2件のみと見られています。ゴーン元会長の事件では、側近幹部が司法取引に応じましたが、これに対し弁護人は「組織内の紛争を解決する手段として制度が使われた」と批判の声を上げています。これは、制度本来の目的とは異なる使われ方ではないか、という違和感を社会に示しているのではないでしょうか。
もう一つの事例である、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の海外贈賄事件では、取引に応じた法人自体は不起訴となりましたが、元幹部3人が在宅起訴されています。このケースでは、「会社が社員を差し出した」という見方も浮上し、企業倫理の観点からも批判的な意見が指摘されました。このように、司法取引が組織と個人の関係に新たなひずみを生み出す可能性も示唆されており、社会的な戸惑いや反響を呼んでいると言えます。SNS上でも、「裏切りを推奨するのか」「冤罪の温床になるのでは」といった懸念の声が多数投稿されており、制度への不信感や抵抗感が根強いことがうかがえます。
制度定着への課題:企業と弁護士に残る戸惑い
制度の適用が進まない背景には、企業や弁護士側の戸惑いも大きく影響しています。企業法務に精通しているある弁護士は、「取引に応じた側が、社会から非難されかねない」と懸念を示しています。仲間を売るという行為が、日本社会の倫理観や慣習になじむのかという根深い問題があるからです。さらに、「まだ特殊な事件しか適用例がないため、実際にどのように活用すればいいのかイメージがつかめない」という困惑の声も聞かれ、制度の使い勝手に関する情報や事例の不足が指摘されている状況です。
過去の例として、独占禁止法における課徴金減免制度(リーニエンシー)が挙げられます。この制度が2006年に導入された際も、「仲間を売る制度は日本になじまない」という批判がありましたが、適用例が積み重なるにつれて定着し、2017年度には103件もの申請があるなど、今では当たり前に活用されています。このことから、司法取引も、適用事例が蓄積され、その利点が社会的に明確になれば、今後活用される可能性は十分に秘めていると言えるでしょう。
現に、日本経済新聞社が2018年に行った「企業法務・弁護士調査」の結果では、弁護士の82%が司法取引を活用すべきと回答しており、企業側も計44%が活用を検討していると答えています。このデータは、法曹界や経済界では、制度の有用性自体は認められつつあることを示しています。稲田伸夫検事総長も、検察幹部の会合で「(司法取引の)有用性は明らかだ」と強調し、「国民の信頼を得ながら定着させる必要がある」と述べています。私は、捜査機関と社会との対話を通じて、制度の透明性と公正性を確保することが、定着への鍵になると考えます。
司法取引の対象となる犯罪は、組織犯罪(覚せい剤取締法違反罪、銃刀法違反罪、組織犯罪処罰法違反罪など)や、経済犯罪(脱税、独占禁止法の罪、金融商品取引法の罪、不正競争防止法の罪など)といった、広範な分野にわたります。特に、現代社会において複雑化する経済事件や組織的な犯罪に対応するためには、この制度は強力な武器となり得ます。しかし、そのためには、検察による慎重な運用と、制度の本質を理解しようとする社会の努力が、今後ますます求められることになるでしょう。