寛永文化再評価の時代到来:平和と多様性が生んだ日本文化の黄金期を知る

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寛永年間(1624年〜1644年)に花開いた「寛永文化」を改めて見つめ直す動きが広がっています。今年は寛永元年から数えて400年の節目にあたり、京都をはじめとする各地で関連イベントが相次ぎ開催される予定です。特に注目されるのは、世界遺産である二条城の本丸御殿が9月から18年ぶりに一般公開されることです。また、徳川秀忠の五女で後水尾天皇の中宮であった和子(まさこ)の生涯を描いた梓澤要氏の小説『華のかけはし―東福門院徳川和子―』が文庫化され、寛永文化の全貌を伝える書籍『京都 二条城と寛永文化』も出版されるなど、出版界でも話題となっています。

二条城は徳川家康によって御所の守護と上洛時の居城として築かれましたが、現在の姿になったのは寛永年間に行われた大規模な改修によるものです。この「寛永の大改修」では敷地を西へ拡張し、本丸御殿や中宮御殿、女院御殿などを新設。さらには伏見城から天守を移築し、壮大な城郭を完成させました。この改修の目的は、1620年に徳川和子を後水尾天皇に入内させたことにより、徳川家と朝廷の融和を象徴的にアピールするためでした。寛永3年9月には後水尾天皇が二条城へ行幸し、その際には約2.6キロの行列に9千人もの参列者が加わり、町中が熱狂に包まれました。

こうした寛永文化がいま再評価される理由は、戦乱の時代を終わらせた平和の象徴であり、自由と多様性を尊重する文化が形成された点にあります。武家と公家の文化が京都を舞台に融合し、そこに商人や町人、職人、僧侶といった多様な人々が加わることで幅広いジャンルの文化が開花しました。出版業界では版木を用いた整版技術の発達により書物の流通が増加し、陶芸では野々村仁清による優雅な色絵陶器が生まれ、町人たちは絹地に模様を施した小袖を身にまとうようになりました。さらに、桂離宮や日光東照宮といった名建築もこの時期に整備されています。美術界でも狩野探幽や俵屋宗達、雲谷等益といった絵師たちが活躍し、茶の湯では千宗旦、立花では池坊専好がその技を極めました。

この時代の文化を支えたのは「文化サロン」の存在でした。濱崎加奈子氏によれば、有力者たちのもとで開催された茶会や立花会が多くの交流を生み、身分の違いを超えて様々な人々が美意識を共有しながら知恵を出し合う場となったのです。その代表例として挙げられるのが、小堀遠州の茶会です。遠州は生涯にわたって約400回の茶会を開き、招待した人数は延べ2千人にのぼり、その客層も大名から公家、町人、医者にまで多岐にわたりました。

また、寛永文化には国際性もありました。ポルトガルやオランダとの交易が行われていた当時、海外から多くの事物が流入し、国内の工芸品にも新しい趣向が取り入れられました。最近の研究では、寛永行幸でポルトガルから伝わった「カステラ」やキャンディの一種「あるへいとう(有平糖)」が献立に含まれていたことも分かっています。オランダ東インド会社から派遣された一行が行幸を見物したという記録も残されています。

このように平和と多様性を象徴する寛永文化の再評価は、現代社会にとっても大きな意義を持つと言えるでしょう。有斐斎弘道館の濱崎氏は、2026年に寛永行幸を再現する「二条城・寛永行幸四百年祭」を京都で開催する計画を進めています。「日本文化の故郷」とも言われる寛永文化を広く知ってもらい、その魅力を世界に発信したいとの思いが込められています。この試みは、歴史的な遺産を次世代へ伝えるだけでなく、国際社会における日本の文化的価値を再確認する絶好の機会になるでしょう。

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